以下創作を始めた高校時代からの持論です。
その創作が天使とかそういう存在がある世界を描くものなので
その頃からちゃんと考えるようになったというだけですけれど。
「神」というものは個として存在するものでなく
人の想いの象徴であるものだと思っています。
なので現在の世の中に
「唯一神」がいることも「八百万の神々」がいることも
「善神」がいることも「悪神」がいることも
当然のことなのです。
意志や想いや信念を持つ人の数だけ神は存在するし、
その神は存在意義としては同じものなのでひとつでもあるのです。
この世に存在する具象化された神々の像は
単に私たちの想いやあやふやな概念・信心を
確固たるものにするためのよりどころであり
「あるべき自分」「ありたい自分」でいるための手助けをしてくれるだけのもの。
既存の神像をよりどころにする人は何らかの宗教に属し、
自分なりの神像をもつ人はいわゆる無神論者になるということ。
どちらでも良いと思います。
救いは許すこと。
祟りは戒めること。
依存し甘えることも
否定し拒むことも
人であるなら…人でなくとも、生きるものならあって当然。
自分のために自分を保つために、あって当然。
どんな感情もあって当然。
ただ
過ぎなければ良い。
逆に言えば
過ぎてはいけない。
何事もまず自分のことを第一に考えてしかるべき。
でないとこの世に存在している意味がない。
でも自分のことを第一に考えるというのは
自分ばかりの快楽や欲望を優先させて良いということではなく、
自分が「限界」に達しないように自分で気をつけてあげるというだけ。
だって他の人には「限界」はわからないからね!
何事も余裕を持つことが大事。
自分に余裕がないと周りを思いやることができず
不和を呼ぶ。
自分に優しく、皆に優しく。
自分に厳しく、皆に厳しく。
どちらも同じこと。
自分がまわりにいかされていることを知り
自分はまわりをいかすために生きるのです
そうして続いていくのです。
いかすというのは
特定の人を手取り足取り面倒を見るとかそういうことではなく
絵を描くことも
文字を綴ることも
畑を耕すことも
テレビの部品をつくることも
コンビニのレジを打つことも
隣の誰かに笑いかけることも
全部一緒。
誰かのために何かのために自分ができることをして
自分が生きていく(生きていける)ということ。
生きることの全ては影響の中にある。
ひとりで生きることはできないし、意味はない。
影響とは響きであり、発すれば波紋のように広がってゆく。
良い響きの波紋を受けたモノは
反射するように新たな良い響きを発する。
逆も然り。
そうやって全ては繋がっている。
自分が自分にとって好ましい響きに包まれたいのなら
まず自分が元となる響きを発しなければ。
途中から脱線しましたね。
前半の話題も後半の話題もあくまで持論です。
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