以下の本文はあまり推敲せず取り留めなく書き出しています。
ここに書いてどうということではないのですが
本当に取り留めないから読まれる場合は読み流し推奨です。
でも今の私の真実である。
本文は長いのでmore以降に収納。
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私は往々にして性善を説く。
「人」に希望を捨てない。
信じる。
けれど鵜呑みにしない。
言葉は言霊。
建設的に。
前向きに。
厳正に。
正直に。
欺かない。
静謐と荘厳を胸に。
生きることの意味を。
表現することの意味を。
この国に生まれた奇跡を。
全てが美しく。
幸福の終焉を。
自分のために。
これが私の立つ道。
私は恵まれているから「幸せ」について考える余裕がある。
この意識は傲慢であるかもしれないけれど無駄ではないと思う。
「人」が好き。
近しい人ほど幸せでいて欲しいのに、
うまくその方向へ持っていけるように自分の言動を導けないのがもどかしい。
人間という存在は好きだけど、もちろん苦手な人もいる。
苦手になるのはだいたいその人の思考回路が理解できない場合である。
全ての人と根を詰めて語り合い理解することは(時間的に)できないので
そういう人とは疎遠になる。
苦手な人と疎遠になった場合は復縁することは難しいけれど
そうでもないのに疎遠になった場合はたいがい復縁することが多い。
人は反応を求めている。良い反応であると嬉しいけれど例え良くない反応でもそれは前進になる。反応がないと廃れて終わるしかない。
「美しい」という言葉が好き。
それはあまり興味のない人からすれば
とても安直で安易、かつ表面的な単語に思えるかもしれない。
でも私にとってはとても広義な単語で、
「心地よい」とも少し似ているかもしれない。
「頑張る」という言葉が好き。
鬱が流行する現代で「頑張れ」という言葉は重荷になるという。
それは過度の期待をそれに乗じているからであって
「頑張る」という言葉、そして行為自体は素晴らしいことではないのか。
「頑張る」と「努力する」は似ているけれど、言われるならどちらの方がマシとかあるのだろうか。
「ハッピーエンド」が好き。
「救われぬ」を描くことで、ある意味教訓として核心を表現する方法もあるけれど、
ささやかでも、何か最終的に「救われる」ものを描くことで、希望のような…一条の光のようなそういうものを表現する方を選んだ。
「バッドエンド」は、どうしても本当の意味での心の澱みは拭えない。(と思っている)
「流血」を絵の中にあまり描かなくなったのはいつからだろうか。
正直な話、中学高校…大学の途中まではやたらそれをモチーフに扱っていたように思う。
一つの転機があってから
闇、悪、残虐、殺戮、陰鬱、狂気といったテーマを自ら描くことが少なくなった。特に直接的な描写をしなくなった。
その負のテーマ・モチーフが悪いというわけではなく、私がそれを選ばないようになっただけで。
私は積極的ではない。それは自分の許容の限界を知っているから。
完遂できる見通しが立たないものには自らはなるべく手を出さない。
無理はしない。
でも時々その限界に挑戦はするようにしている。
でないと何の進歩もない。
幸せであることは悪いことではない。
自分が幸せだからこそ他人の幸せを思える。
自分を好きだからこそ他人を好きになれる。
ただそれを奢り、安穏とそれに溺れなければいい。
そして他人に優しく甘く接するだけが友愛ではない。
馴れ合いも議論も叱咤も激励も全て程よく適度に行われるのが良い。
あなたと私は同じではないから、
本心を伝えた後に、歩み寄るのが一番いい。
無駄なことなど何もない。それを無駄にしているのは自分自身だ。
簡単であることは親切である。
わかりやすいことは親切である。
簡単・単純明快であることは多くの人に伝わりやすい。
むやみやたらと難しい表現は意味がない。
私は私の表現で、たくさんの人にいろんな意味での「美しい」を感じてもらいたい。
「美しい」は「幸せ」を生み、「幸せ」は「力」と「救い」になると信じている。
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この文章、コピペして保存したいくらい気に入りました。
でもってホームページのデザインものすごい綺麗ですね!v
またみにきます。